きのう同じ地域の顔見知りの人のお通夜
に行ってきた。冷たい雨が車の窓を叩く。
長く生きれば生きるだけ顔見知りの
死に向き会うことが増えて行く。
地域のお葬式に一緒にお手伝いした人も
いつか送られる側となり係から消えていく。
そんな葬儀の場では遺族の悲痛な気持ちも
いかほどかと。かといって何もできずに
目を見て深々と頭を下げるしかできない。

でも人は必ず死ぬ。そしてその最後がどんなものか、
いつなのかもまったく予測できない。
最後がどんなものであったにしても、
それをもってその人を憐れむのは間違いであるような
気がする。その人には笑顔があり、充実した時間も
相当あったはずでありそれも含めた一生だったと
思う。つまり人生は把握できないほどの広がりを
もつものであるから悲痛な最後だけを持ってその人の
人生を見ることはしないことだと。
自分の父も晩年はアルコール依存症や認知症などから
大変な迷惑をかける存在となって惨めに見えたけれど、
亡くなり何年か経つと若々しく頭の回転も速い朗らかな
父のことを思い出すようになってきた。

どんな人にも青葉の麦畑のように生き生きと風に波打つような
時間があった。そう思うとその人の笑顔は真っ先に思い出される
ものとなり、それが人の尊厳というものではないかと思った。
今日は雨が上がりスモモの細かな新緑が光りながら
風に揺れている。その方のいなくなったこの台地にも日常が
戻っていきます。どうか天上から見守っていてください。