デジカメを最近なくしてしまいました。
なので4月に行った沖縄の辺野古の基地建設に反対する住民達の監視テントからの写真をアップしました。

この左手にキャンプシュワブという米軍基地があり、そこに連結するかたちで海を埋め立て
新滑走路を作るという計画を知らされてから住民たちは立ち上がりました。

初めて現地に行って海の水に触れヤドカリと遊び、風に吹かれ、その平和な波の寄せ返しの風景が
戦争というものに翻弄されているのを感じました。

同じくその地で生活している人達もその「戦争産業」(かつての悲惨な戦争の記憶も消えないままに)に
翻弄されているのを感じました。

基地建設に反対する辺野古の住民のひとりチャーミングなオバァ島袋文子さんのご自宅に伺いました。
昨年北海道3カ所で自らの戦争体験を伝える講演をされた時に
新得で宿泊した時に会ったことがあるのです。

島袋さんは「青虫のお兄ちゃん」と私のことを覚えてくれていました。
新得の時は戦争の後遺症による足の手術後だったので車椅子でしたが、
今回ゆっくりと歩いて奥から出て来てくれました。
ショーケースにはお手製の手芸品。
好物のコーラを出してくれました。

島袋さんは80代半ばにさしかかりますがドキッとするほど目がしっかりしていて
とても精神がしっかりしているのが伺えました。

島袋さんのこと。

大戦末期1945年、米軍が上陸してきて沖縄はたいへん悲惨な状況に置かれました。
当時16歳だった文子さんはガマ(壕)に隠れていた時に米軍の火炎放射器で焼かれ
半身に大やけどを負い、出て行ったところを米兵に野戦病院に運ばれ
生死をさまよい奇跡的に一命をとりとめたということです。

16歳の少女が体験するにはあまりもの過酷な記憶はずっと人に語らずに心に秘めてきたのですが、
最近になってこの国がふたたび戦争をできる国になろうとしていると感じ
自分の体験を語っておくべき時と考え話し始めたのだそうです。ごく最近のことです。

戦後は米軍将校のメイドなどをして生活してきました。
「二度と戦争を起こさせたくない、ところが新聞見てると今の安倍首相の言うことが私には恐ろしいのよ。」
そう話してくれました。

でも素敵な笑顔で、本当は読谷村でやる私のライブに来るつもりだったのですが
断念、でも基地でしか買えないというハンバーガーを山ほど差し入れてくれました。

「読谷村は島唄の盛んな場所でねえ、いろんな島唄があるよ。」
本当にそうでした。沖縄は音楽の島です。(それは後ほど書こうと思います。)