May 2021
午後七時の皆既月食のはじまり
これを書いている今窓を見やれば、月食が明けて鮮やかな月面が
出てきた。赤黒いようなダークな月はやはりミステリアスで少し
不気味、古代の人はきっと様々な予兆と捉えただろう。
予兆といえばついに朝日新聞が社説でオリンピックの強行開催に
異を唱えた。読んでみるとすごく真っ当な意見だった。
何か腑に落ちない、そう感じている人がたくさんいるのに
納得できる説明がどこからもない。
皆既月食と重なったこの社説は予兆であると思いたい。
とてもオリンピックの気分じゃないもの。
トラクターで走り回った1日。
午前あんなに満開でタンポポ畑かと思った牧草地が
夕方にはつぼんで姿を消したように見えてこんなに
風景が変わるのかと驚いたしだい。
風光る季節。
カラマツの枝がしなるように上に向かい
そこから細かな枝についた葉が房となり
垂れ下がる、その力を入れるところと
力を抜いたところの混在する姿がなんとも
美しい。風が吹けばゆらりと枝を大きくたわませながら、
葉の房を七夕飾りのようにサラサラ小刻みに揺らす。
住み始めた最初の頃はよくわからなかった
カラマツの優雅なところが年をとるほどに感じられるようになった。
地元にはカラマツ専門の製材工場があるし
今まで大工仕事で随分使わせてもらって
本当にありがたい樹木だ。
大風からも守ってくれるし、すっくと立つ姿は神々しいほどだ。
今日はトウモロコシ3回目を蒔いた。途中黒雲に覆われ
雷鳴と雨で中断。夕方には明日の皆既月食を控えた丸い月が現れた。
ポリマルチを張るとほぼ同時に鹿よけの電気柵を
畑の周囲に設置する。冬の間は自由に往来できたけれど、
それも今日まで。
「わしらのランドに奴らは勝手にラインを引き、
おまけに電気ショックときたもんだ。迷惑な奴等だ
人間という種族は。」鹿の声
日常が野生生物と接する生活をしていると、
生きていくのはつくづく闘いだと思う。
やはり「整理」していかなければ生きられない。
この辺りの昔の農家は家族をクマから守るために
鉄砲を持つ人もざらにいたそうだ。
動物たちも人も生きていかなければならない。
我が家もかぼちゃを踏み荒らされたら困るのだ。
時々うっかり電気柵に触れてドーンとショックを
受けることがある。ああ、気をつけよう。
雲の厚い1日、夕方には雨さえ降ってきた。
プラウ(耕起作業)を一通り終了。ちょっとした作業で
エンジンを止めるとタンポポやハコベの花に気がつく。
ハコベの小さな花は10片の花びらがあった。
タンポポを鼻につけると菊の匂いに似ている。
ちぎると茎から白い液体が出てくる。まるで
ミルクのように綿毛の子供を育てるんだな。
小さな草にも理由があって機能と形があることに感じ入る。
風や雨や太陽がそういう形にしたのかと思うと
どちらが主体なのかわからなくなってくる。
生命というものは不思議なもの。
再びエンジンをスタートしそれらの草をうないこんでいく。
一面黒々と光る土の腹だけの世界へと変わる。
雑草たちは見えないところで逆立ちしてる。
隣の牧場のマスコット山羊 みつ君
有機認証の実地検査の日。
圃場や作業小屋の確認と書類が適正に記録されているか
を検査員が細かく確認していく。
2001年から参加した認証取得なので早いもので20年。
政府の中では輸出のために有機農業を進めようとする考えも
あると聞くが、そうではなく国内の自給率を高め農薬大国と
いう汚名を返上するために力を注いで欲しいと思う。
食べ物は人の生命活動を支える大事なものであるから。
午後から雨、半端になった時間は最近はペンキ塗りに当てている。
絵は描かないが気がつけば今まで屋根のペンキ塗りも随分やってきて
最近は家の壁も塗り出すと面白くなってきて絵を描いているような
感覚になっている。木々がもう少し緑濃くなった時にはこの色は
どう映えるかとか風景の中の絵に筆を入れていく楽しさというか。
自分で配合して色を作ったりして寝ている時もどんな色が合うか
考えてしまう。塗ったら遠くから眺めてみたりなんども見て
しっくりこなければまた塗り直したりもする。
色は気になる。実はよく使うブルーシートも好きではないので
あまり視界に入らないところで使ったりする。
色が心に与える影響は少なくないと思う。
街並みでも色彩を意識した街とそうでない街並みでは心の落ち着き方も
全然違う。そんなことを思いながら絵筆を少しずつ運んでみたい。
夕方小雨の中をジーコと散歩。
灰色の雲に薄い穴が開き青空が透けて見えた。
色の穴と名付けた。
猫のエムはお気に入りの昼寝場所を見つけたようで。
薔薇色でもない青でもないうっすらと
モノクロに色がついたような雲がホワホワと
布団綿のような腹を見せている。
仕事を終えてジーコの散歩、100mほど向こうの
牧草地に鹿と狐を見たものだから飛び出したくて抑えるのに必死。
今日の仕事といえば息子が横浜から来ていたので使うのは今だとばかりに
斜面に転がる丸太の輪切りを力を借りて上まで上げた。
そのうちひとつがゴロゴロと転げ落ち下の方で止まった。
落ちる様はなかなか愉快で絵本で見たリンゴかおにぎりかを
思い出した。
そうこうして時間が半端になったので、家の残り1面の
防腐剤塗りに専念することとし、暗くなる前に全部完了した。
オリジナルカラーは明るい茶色だったが今はダークブラウン
になった。四隅ははっきりした緑でアクセントに。
早起きしすぎて10時くらいに早い昼寝となった子の
小さな手。玩具を持つ時の繊細な指の動きもすごいけれど、
眠っている時の指も小さいながら精巧に完成されていて
思わず見入ってしまう。
突然ピクッと動いたり何かに驚いた時のように腕を急に
広げてみたりは単なる筋肉の反射かそれとも夢を見ている
のか。自分のとは違い透き通るようなきれいさだ。
今日はこどもの日。朝のニュースで15歳以下の人口は
わずか1割ちょっとだと聞いた。それがこの国の未来に
どう影響するのか自分にはわからない。
けれども子どもを大事に育てていかなければいけないことは
はっきりしている。数の多い少ないも確かに問題だけれど
ヒトの手というものが幾多の不毛な争いを越えて作り上げてきた
文化、とりわけペンの力をどう子どもたちに手渡していけるかを
考えることの方が大事だと思う。
手という器官をしげしげと眺めてその機能に感謝してもしきれないの
だけれども同時に恐ろしいことにも使われてしまうのもまた手だ。
これだけ完璧な美しさと機能を持った手自身が喜ぶような
そんな使い方をできたら未来は明るいと思う。
小さな指を目でなぞる。
きのう同じ地域の顔見知りの人のお通夜
に行ってきた。冷たい雨が車の窓を叩く。
長く生きれば生きるだけ顔見知りの
死に向き会うことが増えて行く。
地域のお葬式に一緒にお手伝いした人も
いつか送られる側となり係から消えていく。
そんな葬儀の場では遺族の悲痛な気持ちも
いかほどかと。かといって何もできずに
目を見て深々と頭を下げるしかできない。
でも人は必ず死ぬ。そしてその最後がどんなものか、
いつなのかもまったく予測できない。
最後がどんなものであったにしても、
それをもってその人を憐れむのは間違いであるような
気がする。その人には笑顔があり、充実した時間も
相当あったはずでありそれも含めた一生だったと
思う。つまり人生は把握できないほどの広がりを
もつものであるから悲痛な最後だけを持ってその人の
人生を見ることはしないことだと。
自分の父も晩年はアルコール依存症や認知症などから
大変な迷惑をかける存在となって惨めに見えたけれど、
亡くなり何年か経つと若々しく頭の回転も速い朗らかな
父のことを思い出すようになってきた。
どんな人にも青葉の麦畑のように生き生きと風に波打つような
時間があった。そう思うとその人の笑顔は真っ先に思い出される
ものとなり、それが人の尊厳というものではないかと思った。
今日は雨が上がりスモモの細かな新緑が光りながら
風に揺れている。その方のいなくなったこの台地にも日常が
戻っていきます。どうか天上から見守っていてください。
に行ってきた。冷たい雨が車の窓を叩く。
長く生きれば生きるだけ顔見知りの
死に向き会うことが増えて行く。
地域のお葬式に一緒にお手伝いした人も
いつか送られる側となり係から消えていく。
そんな葬儀の場では遺族の悲痛な気持ちも
いかほどかと。かといって何もできずに
目を見て深々と頭を下げるしかできない。
でも人は必ず死ぬ。そしてその最後がどんなものか、
いつなのかもまったく予測できない。
最後がどんなものであったにしても、
それをもってその人を憐れむのは間違いであるような
気がする。その人には笑顔があり、充実した時間も
相当あったはずでありそれも含めた一生だったと
思う。つまり人生は把握できないほどの広がりを
もつものであるから悲痛な最後だけを持ってその人の
人生を見ることはしないことだと。
自分の父も晩年はアルコール依存症や認知症などから
大変な迷惑をかける存在となって惨めに見えたけれど、
亡くなり何年か経つと若々しく頭の回転も速い朗らかな
父のことを思い出すようになってきた。
どんな人にも青葉の麦畑のように生き生きと風に波打つような
時間があった。そう思うとその人の笑顔は真っ先に思い出される
ものとなり、それが人の尊厳というものではないかと思った。
今日は雨が上がりスモモの細かな新緑が光りながら
風に揺れている。その方のいなくなったこの台地にも日常が
戻っていきます。どうか天上から見守っていてください。
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